雲母書房
コラム

高岡健


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(72)『21世紀の資本』論
2015.04.30
▼日本におけるピケティ・ブームは、早くも下火になったのか、それともまだ続いているのか、よくわからないところがある。ピケティの提案によっては、アベノミクスの失敗を解決し得ないことが判明した時点で下火になるともいえるし、それが判明するまでは続くということもできる。ただ、私には、彼の無効性は、すでに判明しているように思える。

▼ピケティは、資本主義の基本法則として、二つの等式を記している。第一は、「資本ストックを、資本からの所得フローと結びつけるもの」で、α=r×βで示される(αは国民所得中の資本からの所得の割合、rは資本収益率、βは資本/所得比率)。この等式は、(資本からの収益/資本×資本/所得フロー=資本からの収益/所得フローということだから、「純粋な会計上の恒等式」という説明に、だれも異論をはさまないだろう。ただし、rは「利潤率よりも広い概念だし、利子率よりはるかに広い」ことには留意が必要だ。

▼ここで私たちは、マルクス『資本論』の最後に登場する「三位一体的範式」を思い出すことになる。「資本―利潤(企業者利得プラス利子)、土地―地代、労働―労賃」という三位一体的形態は、「利子は資本の本来的で特徴的な生産物として現象するが、企業者利得はこれに反し、資本から独立する労賃として現象するので、「資本―利子、土地―地代、労働―労賃」という形態に還元される。「この形態では〔中略〕剰余価値形態たる利潤が、さいわいに片づけられている」――。

▼もっとも、ピケティは、マルクスを「一度もちゃんと読んだことはない」「『資本論』は難しすぎて読みづらい」と公言している。ほんとうに読んだことがないのか、読んだことがないようなふりをしているだけなのか、もちろん実際のところはわからない。だが、ピケティは資本収益率に地代も含めている。すると、彼の言う資本収益率は「資本利潤(企業者利得プラス利子)と地代」という「剰余価値の特殊的な二成分」であり「社会的剰余価値の総和」ということになるはずだ。

▼さて、ピケティの記す第二法則は、β=s/gで示される(βは資本/所得比率、sは貯蓄率、gは成長率)。ただし、この等式は、いくつかの前提があってはじめて適応可能とされているから、第一法則とは違って公理とはいえない。(ピケティ自身は、「法則」というよりも、「国民所得の資本分配率の定義」、あるいは「資本収益率の定義」であると述べている。)ちなみに、前提とは、「長期的に見た場合」「人間が蓄積できる資本に注目した場合」「資産価格が平均で見て、消費者物価と同じように推移する場合」の三点だ。

▼ここで、ピケティはマルクスに言及する。gが限りなくゼロに近い場合だ。この場合、βは無限大へと向かい、その結果としてrはどんどん下がってゼロに近づく。そうでなければαが「最終的に国民所得のすべてを食い尽くす」――。ここからのピケティの筆は、マルクスが当時の統計データを用いていないことの指摘へと向かう。しかし、現在の先進国の情況は、低下して当然のrを人為的に維持しようとすれば、αが「すべてを食い尽くす」方向へ動くしかないというジレンマの裡にあるのではないか。

▼先進資本主義国における現下の情況についてのピケティの処方箋は、累進課税と財務の透明性(タックスヘイブンとの闘い)・最低賃金・教育へのアクセスといった、市民主義者の喜びそうな内容に終始している。もちろん、これらの提案は無いよりあったほうがいいし、実行されないよりはされたほうがいい。だが、こういった分配政策で解決可能な範囲は、たかがしれている。なぜなら、不平等は分配以前の時点で原理的に生じているからだ。

▼このことについて、マルクスの三位一体的範式論は、次のように述べる。「資本は年々の労働の価値したがって生産物の一部分を利潤の形態で固定させ、土地所有は他の一部分を地代の形で固定させ、賃労働は第三の一部分を労賃の形態で固定させるのであり、まさにこの転形によってこそ、資本家、土地所有者、および労働者の収入に転形―といっても、これらの相異なる範疇に転形される実体そのものを創造することなしに―させる」「分配はむしろ、現存するものとしてのこの実体、すなわち、対象化された社会的労働にほかならぬ年生産物の総価値を前提とする。とはいえ、事態が生産当事者たち―生産過程の相異なる諸機能の担い手たち―のまえに現れるのは、こうした形態においてではなく、むしろ、逆立ちした一形態においてである」――。

▼分配の局面では、生産における収奪は倒立した像としてのみ出現する。このマルクスによる指摘に対し、課税その他のピケティの提案は射程が短い。言い換えるなら、しないよりはしたほうがいい程度の、対症療法に過ぎない。つまり、ソフト左翼(構改派)を、一時的に喜ばせるだけだろう。

▼ピケティの著作が、これほどまで生産―収奪過程の分析から離れてしまうのには、理由があると思う。それは、生産過程の分析と消費過程の分析が拮抗し、どちらから始めても同じ処方箋へと至るような時代情況が到来しているという点に求められる。そうであるなら、生産―収奪過程を税により修正するという構改派的提案ではなく、ベーシック・インカムに関する議論を消費過程に即して再構築するところへ進むしかない。
*ピケティの引用は、山形ほか訳『21世紀の資本』(みすず書房)、「マルクスなんてどうでもいい―左翼ロックスター経済学者へのインタビュー」「資本、労働、成長そして不平等」(いずれも「現代思想」2014年1月臨時増刊号)、マルクスは長谷部訳による。
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