雲母書房
コラム

高岡健


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(74)『絶歌』論
2015.06.16
▼神戸市連続殺傷事件の「元少年A」による手記『絶歌』(太田出版)が、賛否両論を呼んでいるようだ。それらの中には、販売を自粛した書籍チェーン店や、事件の真似をする子どもが増えるとする指摘など、まったくの的外れというしかない報道も含まれている。
だが、「自分の頭で考え、自分の力で自分の居場所を見付け、自分の意志で償いの形を見出さなくては意味がない。そのためには、自分はどうしても『ひとり』になる必要がある。」というAの記述は、極めて切実な状況の反映であったに違いない。

▼先の記述へと至るAの状況とは、次のようなものだった。「思えば僕は、これまでずっと誰かや何かに管理されてきた。逮捕されるまでは、親や学校や地域社会に。逮捕後は国家権力に。社会復帰後は、Yさん〔Yさん夫婦は篤志家で「彼らがいなければ、僕の社会復帰はなかった」とAは記している・引用者註〕を始めとするサポートチームのメンバーに。」別の言い方をするなら、「自分の過去を隠したまま『別な人間』として周りの人たちに近付きすぎると、本当の自分をつい忘れてしまうことがある。でもこうやってふとした拍子に、自分は何者で、何をしてきた人間なのかを思い出すと、いきなり崖から突き落とされたような気持ちになる。」――

▼Aは、毎年三月に入ると、被害者遺族への手紙の執筆にとりかかるという。そこから三か月間、被害者のこと以外は何も考えない生活を送る。すると、「徐々に気持ちが不安定になり、犯行時の様子がフラッシュバックし、悪夢にうなされる」ようになるという。そこからの自己治療として、Aは、アクセサリーデザイン、ペーパークラフト、コラージュなどに集中したが、最終的には文章を書くことへと行きついた。「もはや僕には言葉しか残らなかった。」――

▼少年院を出た後のAが、かつてのサレジオ高校事件における加害少年のように、「別な人間」としての人生を歩み、弁護士にでもなろうとすれば、とくに不可能というわけではなかったはずだ。あるいは、あえて社会の底辺での生活を選び謝罪の手紙を書き続けようとすれば、Aの精神が壊れない限りという条件付きでだが、可能だったかもしれない。しかし、Aは、それらのいずれをも選ばず、書くことによって自分の頭で考え行動しようとした。

▼もちろん、自分の頭で考えた結果は、現時点では未だ途上というしかない。自らの事件についての報道や考察を全部あつめて「勉強」したAは、当然にもそれらの影響を受けている。たとえば、少年時代に暮らしていた場所を「“人工”と“自然”がまったく調和することなく不自然に隣り合う、このニュータウン独特の地貌」と表現し、それを「僕の二面性」と結びつける記述は、二流の社会学からの影響だ。また、一連の犯行当時には「醜形恐怖」を発症していたという記述は、二流の精神医学からの影響というしかない。

▼さらに、途上だと私が感じる最大の理由は、母親に関する記述が、他の家族成員と比べて、極めて乏しい点だ。Aは、実直な技術者(というよりも腕のいい職人といったほうが正確かもしれないが)としての父親を、少なくとも現時点では敬愛しているようだ。加えて、二人の弟との面会場面などは、読者の目に涙が滲むほどだ。そして、何よりも祖母に関しては、幼いAを抱きかかえた写真が掲げられている。反面、母親に関しては、「僕の母親は、“母親という役割”を演じていただけ」「母親は、ひとりの人間として僕を見ていなかった」という過去の語りは、「本心ではなかった」と記してあるだけだ。

▼逮捕前や出院後の記述に比べて、少年院にいた頃の記述が少ないことも、途上と感じさせる理由の一つだ。Aに対しては、法務省の威信を賭けて有能なスタッフを大量に少年院に投入したといわれていた。また、どこまでほんとうかしらないが、土居健郎がスーパーバイズしていたという情報もあった。もし、そのとおりだったなら、少年院では母親との関係性が深く掘り下げられたに違いない。そのことを記すことを禁止されているのでなければ、そのことをAは未だ消化しきれていないのだろう。そのため、現時点では母親に関する記述が少ないのかもしれない。

▼ところで、『絶歌』には、看過できない文体上の特徴がある。それは、次のようなものだ。まず、冒頭部分から、「油ぎった皿に落ちる一滴の洗剤のように」「徐々に空気が抜け出て萎んでしまった自転車のタイヤのように」「勤勉な郵便配達人のように」といった直喩が、至る所で使われている。Aが、現在の状況の中で事象や思考や感情を位置づけようとした場合、このような直喩を座標軸として採用せざるをえなかったのだろう。決して高次とはいえない比喩としての直喩を採用しているという事実は、世界との低次の対応すら持たないAの生活の反映であるとすらいいうるのではないか。

▼次に、少数だが隠喩が採用されている箇所もみられる。「身体の中に真っ黒い風船が膨らみ、内側から内臓を圧迫した。」「気付くとマシンガンと化した涙腺から、涙の弾を連射していた。」といった表現がそれだ。これらもまた、高次とはいえない比喩であることにかわりはない。ただ、「内臓」「涙腺」といった内部感覚を表そうとすれば、直喩ではない表現を採用するしかなかったということなのだろう。附記するなら『絶歌』という表題の意味は、最後までわからないままだった。「絶勝」「絶景」といった用法とは違うようだし、「絶望」や「絶叫」あたりとは重なる部分があるのかもしれないが・・・。
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